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長野地方裁判所諏訪支部 昭和33年(わ)38号 判決 1958年5月23日

被告人 木村貞夫

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、「被告人は唖者であるが、昭和三三年四月一二日午前五時三五分頃国鉄中央線小淵沢駅から同富士見駅間を進行中の新宿発長野行第四二一列車前部二輛目において、仮眠中の鳥羽芳夫のズボン左側ポケットから現金七〇〇円位を抜き取り窃取したものである。」という訴因によつて表示されるところである。

二、右によつて明らかなように、本件訴因は窃盗の既遂である。しかし、本件で取調べた証拠中には窃盗の既遂を認めるに足る的確な証拠はない。すなわち、証人鳥羽芳夫の当公廷における証言によると被告人が被害者のズボンの左側ポケットに手を入れたことを目撃したが、ポケットから出た被告人の手は何も持つていなかつた旨の供述があり、同証人の検察官面前調書によつても、その際ポケットから出た被告人の手に公訴事実の被害品があつたことを肯認し得る記載はない。証人酒井義一、同三村和也の証言中この点に関するものはいずれも右鳥羽証人からの伝聞であり、右鳥羽証言以上のものではなく、これらの証言も窃盗既遂の点を肯認する証拠とはならない。

三、およそ、判決の対象は訴因によつて限定される。従つて、訴因によつて明示されるところと異つた事実の法律的構成の認定をなす場合には訴因変更の手続を経る必要がある。しかし、窃盗既遂を窃盗未遂に認定するときのように一の構成要件の中に他の構成要件が包含されている場合には、事実の法律的構成が変つても何ら防禦の重点が変るわけではないから、例外として訴因の変更を要しないと解すべきである。であるから、本件においては窃盗未遂罪が成立するか否かがつぎの問題となる。

四、窃盗未遂罪が成立するためには、被告人が窃盗の犯意をもつて被害者のポケットに手を入れたこと、すなわち、犯意に基づく実行の着手が認められなければならない。

この点の直接証拠は検察官の面前における上原嘉右衛門の供述を録取した調書である。この調書は証拠とすることについて被告人の同意がないけれども、右供述者が公判廷において取調を受けた結果公判期日において前の供述と実質的に異つた供述をしたので、形式的には刑事訴訟法第三二一条第一項第二号後段の規定によつて一応証拠能力があるように見える。そして、検察官は右法条により証拠能力を有するという見解である。この調書は、上原嘉右衛門の供述で被告人の供述を内容とするものであり、これを法律の用語例に従えば「被告人以外の者の検察官の面前における供述で被告人の供述をその内容とするもの」というべきものである。そして、このような調書は刑事訴訟法第二編第三章第二節の諸規定に照し、同法第三二一条第一項第二号所定の書面の中に含ましめるべきではないし、他に同法上このような調書の証拠能力に関する規定はない(同法第三二四条第一項の類推適用ということも考えられない)のであるから、被告人が証拠とすることに同意(この場合の同意は書面の内容が被告人の供述であるから反対尋問権の放棄というよりも供述内容の真実性の確認である。)しない本件においては、右の調書は同法第三二〇条第一項の原則(直接証拠主義の原則)により証拠能力を否定せざるを得ない。

五、なお、右の調書は、仮に検察官の見解に従い証拠能力を認め得たとしても、証人上原嘉右衛門の当公廷における供述、被告人の司法警察員面前調書(この調書作成の際には右上原に代り丸山通訳人が通訳しているが、被告人は窃盗の犯意を否認し且つ上原嘉右衛門に対する犯意自認の事実をも否定している)に照して、被告人と同様唖者である供述者が、被告人の言つたこと(身振り手まねしたこと)を正確に了解し且つこれを正確に検察官の面前で供述(報告)しているか否かに疑いがあり、信用できないのでこれを証拠に採ることはできない。

六、他に被告人に窃盗の犯意のあつたことについての直接の証拠はない。しかし、本件においては被告人にとつて不利益な情況事実、すなわち、同様の手口による窃盗の前科のある事実、甲府駅から下り列車に乗車するにつき正当の乗車券を持つていない事実、当該列車に乗車の目的がはつきりしない事実等が存在する。けれども、右被告人に不利益な情況事実と他の証拠の総合によつても被告人の犯意を推断することはできない。特に、本件発生の折に被告人は金銭を所持していたことであるし、被告人が当初から弁解していること、すなわち、新聞で被害者のズボンの左ポケットの辺をたたいた折のはずみでポケットの中に手が入つたということを全く虚偽であるとも断定できず、また、証人鳥羽芳夫の当公廷における供述態度にみると、真実は被告人が窃取したのかどうか明らかでないのに、同証人は被告人に窃取されたものと思い込んでしまい、そのように思い込んだ心理状態において鉄道公安官に被害の申告をなし、その申告並びにその際の供述が後々まで事件の経過に影響している点並びに耳が聞こえず口もきけない被告人が不自由な所作で通訳人を介し極力犯意の存在を否定している事実に徴するとき、被告人の行動に疑問は依然残るけれども、さればといつて犯意の存在を確定することはできないというべきである。従つて、その余の構成要件に該当する事実の存否を検討するまでもない。

七、以上説明したように、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をなすべきである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 田中加藤男)

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